愚者のアリア

亜梨栖が定時になっても戻ってこない。
部活の真っ最中に、家のものから入った一本の電話。
それがアイツと会うきっかけになるとは、思ってもみなかった。


『跡部君には一生分からないよ』


との、最初で最後のプライベートな会話だった。
今まで一欠けらも思い出すことなどなかった、なかったはずなのに。
先程から頭を占めるのは、・・・否折原のことばかり。
妹、亜梨栖に痴漢した奴を引きずり出して、社会的制裁を与えるだとか、どうすれば亜梨栖が一人で行動しないようにできるだとか。
発信機はやりすぎだと思っていたが、持たせておいて正解だったとか。

色々と考えなければならないことが山積みだというのに、俺の脳裏に過るのは、少し大人びて、すっかり人間らしくなった折原のこと。
そして、彼女の隣にいた自称保護者の折原臨也とかいう、ニヤついた男。
話してみれば常識のある大人だったが・・・・・・どうも気に食わない、何がどうと説明できるものではない。
第六感がそう言っている。だから繰り返すしかない、幼子のように。気に食わない、と。


「景吾様。亜梨栖様はご無事でした。今はそれだけで十分ではありませんか?」


運転手の優しい声に顔を上げると、フロントミラー越しに目が合うと同時に、自分がどれ程難しい顔をしていたかがよく分かった。
彼は俺がずっと亜梨栖のことで、難しい顔をしていたものだと思い込んでいるらしい。
俺だってそうなると思ってたさ。


「ああ・・・・それと一つ頼まれてくれないか」
「何なりと」
「折原臨也とその身内について、調べておいてくれ」










当事者と第三者と











目が覚めたら、目が覚めるようなそれはそれは美しい人形―もとい女の子が静かに寝息を立てていました。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなりそうだったが
昨日亜梨栖ちゃんと一緒にベットに入ったことを思いだし、今だ夢の中にいる彼女を起こさぬようそっとベットを抜ける。
時計に目を向けると、針は午前8時を指しており、休日に起床するにはいささか早い時間ではあるが
二度寝する気も失せてしまい、リビングへ向かう。
臨也さんの自宅兼事務所とはいえ、いくら不規則な仕事だといっても、8時からは仕事はしないようで
主を失った、PCが3台並ぶデスクは静まり返っている。


桜が咲いて、春だといっても朝はまだ冷える
手を擦り合わせつつ、ケトルに水を入れスイッチを押す。
今日はあっさりしたものが飲みたいので、このあいだ買ったばかりの春限定というハーブティを取り出す。
ハイビスカスとローズヒップがブレンドされてあるようで、とても爽やかな香りが鼻梁を擽る。
思わず顔を綻ばせながら、ティースプーンで茶葉をポットに入れると


「俺にもちょーだい?」
「っ!?」
「おっと。セーフ」


突然、耳元でそう臨也さんの声がしたものだから、驚きすぎて茶葉が詰まった缶を落してしまうところだった。
バクバク煩い心臓を抑えていると、並はずれた反射神経で掴んだ缶が、臨也さんの手でテーブルに乗った。
一言言ってやろうと振り返る予定だったが、後ろからキュと抱きしめられ、振り返ることは叶わず。


「そんなに驚かなくても」
「気配消しすぎなんです・・・落としてたら、3日はファストフードでしたよ?」
「それは嫌だなぁ」


ちっとも嫌がっていない声で告げ、クスクス笑いながらの肩に顎をのせる。
うなじに息がかかり、くすぐったい。身を捩るが、臨也さんは楽しそうに笑って離す気配はない。
どうしたら離してもらえるか、分かっているものの中々自分から行動するのは恥ずかしいもので。
そんな私をあざ笑うかのように、カチッと機械音。ケトルのお湯が沸騰した印だ。


「俺はこのままでも暖かいし、いいけど?」


確かに暖かい。暖かいが・・・・紅茶が私を誘うように爽やかな匂いをさせているし、何より恥ずかしい。
仕方ない、と自分に言い聞かせ、臨也さんと向かい合うようくるりと向きを変え、軽くハグする。
そして軽く、頬にキス。


「おはようございます」
「ん。おはよ」


チュっと軽いリップ音が響き、離れてゆくものだと思っていたら


「あの、臨也さん?」
「ん、何?」
「いや、離れてくれないとお茶が・・・」

「ああ・・・・うん、入れてあげるからソファーで座ってなよ」


嫌だとダダをこねると思っていたら、以外にすんなり、それもお茶まで入れてくれようとしているではないか!
つったったままのに気づき、しかし手は止めないまま、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべ
コテンと首を傾げ、両手を広げる。


「もっと抱きしめといた方がよかった?」
「えっ、え?えっと・・・・何か軽いものでも食べますか?」
「あからさまに嫌がらなくったっていいんじゃない?」


苦笑を浮かべる臨也さんをどうしたものかと、扱いかねていると、ふわり赤色が視界を奪う。
それはそのままの肩へかけられ、くるり背中を返される。


「ほら、ソファーに行ったら続きしたげるから。行った行った」
「あ、ありがとうごいます」


トンっと肩を押され、愛用のブランケットの両裾同士を手繰りよせ、は頬を綻ばせながらソファーへ向かった。


「ちょっとヤバかったかな?」


まだ腕の中に残る、甘い香り。目の前のポッドから漂っている甘く爽やかな香りではない、の香り。
不覚にも、ドキリと心臓が跳ねるのを感じ、慌てて腕から解放してしまった。
それはそれで惜しいことをしたと思っているが、少し安堵もしている。
徹夜続きとはいえ、に欲情しそうになるとは・・・安堵した自分がいるということは、危なかったということだ。
女に不自由はしていない、欲求もそれ程強くない、それなのに求めてしまっていた。


「ま、どうなるか見てみたかったけど」


実行するのは・・・まだ早い。お楽しみは最後の最後まで大事にしておくべきだ。
そんな衝動に駆られた自分を説得し、に感じた感情に蓋をし、保護者の臨也の仮面をかぶった。




****




臨也さんと団欒(ソファーはだだっ広いのになぜか膝の上に乗せられた)していたが、突然臨也さんの携帯が鳴りだし
彼は面倒臭そうにそれを受けたが、話しをする内ご機嫌になり、嬉々として出かけて行った。
臨也さんがご機嫌な時、それは周りの人間にとって何か良くないことが起こる時だ。


「ちょっと出かけてくるね。あ、軽く食べられるもの用意しといてくれる?」
「はい・・・」
「そんな顔しちゃ、可愛いちゃんが台無しだよ?」


不機嫌さが滲み出ていたのか、クスクス笑いながらプニと頬を指でさされた。
より口を尖らせると、おでこに、瞼に、鼻に、頬にと次々とキスを贈られる。
恥ずかしさより、くすぐったくて身を捩じらせていると


「ん。ちゃんは笑ってる顔がいいよ」
「あ、あの・・・・!」


第三者の声に顔を向けると、そこには少し顔を赤くした亜梨栖ちゃんの姿。
驚きすぎて、恥ずかしすぎて声にならない私をよそに、臨也さんはおはようと爽やかな笑みを浮かべた。


「俺、ちょっと出るから。ごゆっくり」
「は、はい!ありがとうございますっ」
「あああああああの、あのっ!えっと!」
「だ、大丈夫です!私も、お兄ちゃんとしてますから!その、小さい時に!」


フォローではなくとどめをさした亜梨栖ちゃんと、さされたをよそに

臨也はいってきますとの頬にキスをすると、その場を後にした。


「や、やっぱり引いちゃうよね?」


何となく気まずい雰囲気が漂う中、が恐る恐るという風に切り出すと、亜梨栖がはじかれたように喋り出す。


「い、いえ!あの、お邪魔だとは思ったんですが、どうしても恥ずかしくなってしまって」


大声出してすみませんでした。と頭を下げる亜梨栖ちゃん。


「謝ることじゃないよ!それに、私たちは家族だから・・・まぁ、あまりそうは見られないけど」
「え?!ご、ご家族なんですか?!」


目を見張る亜梨栖ちゃんに、どうしてそこまで驚く必要が・・・と考え、恋人ばりのことをしていたと反省し
は苦笑を浮かべた。


「うん。親戚なんだけど・・・事情があって私の後見人してもらってるの」
「そ、そうなんですか・・・私はてっきりご結婚されてるのかと」
「けけけけ結婚?!」
「同じ苗字ですし、お兄ちゃんに”今は折原”と仰ってましたし、女性は16歳から婚姻できますし・・・」
「はははっ」


やはり臨也が”日常”といっているスキンシップは”普通”じゃなかった!
乾いた笑みを浮かべるに、亜梨栖も苦笑いを浮かべていたがふと表情を曇らせ、ポツリと言う。


「でも、羨ましいです」
「え?」
「私も小さい時はお兄ちゃんと、たくさんキスしてたんです」
「・・・今は?」
「私、お兄ちゃんが怖いんです」


その言葉を皮切りに、亜梨栖ちゃんは溜まったものを吐き出すように、沢山話してくれた。
跡部財閥の娘という肩書の重み、優秀すぎる兄、過保護すぎる身内


「生まれる家は選べません。こんなこと、親不幸なのも、甘えているのもわかってます。
でも、私には跡部の名前は重すぎるんです。とっても、息苦しい・・・!」
「亜梨栖ちゃん・・・」
「お兄ちゃんは何でもできて・・・お父さまやお母さまのご期待にも添える、私も自慢のお兄ちゃんです。
お兄ちゃんが大好きです。でも、でも・・・私はお兄ちゃんのようになれません。跡部の娘というフィルターで見られることも慣れたくない!」
「当り前だよ。亜梨栖ちゃんは違う人間なんだから」
「当たり・・・ま、え?」


ポロポロ頬を伝う涙を乱暴に拭う亜梨栖ちゃんの手を止め、優しく涙を拭う。


「あと・・・お兄さんと亜梨栖ちゃんは違う人間なんだから。亜梨栖ちゃんは亜梨栖ちゃんのままでいいんだよ」
「私の、まま・・・」
「いい子でいる必要はないんだよ、跡部の枠に収まる必要はない、跡部のフィルターで見られることに慣れる必要もない
跡部亜梨栖は世界にたった一人しかいないし、見本はどこにもないんだよ?」
「・・・、さぁん!」


胸の中に飛び込んできた亜梨栖ちゃんの頭を撫でつつ、その体を抱きしめる。


「亜梨栖ちゃんは亜梨栖ちゃんのままでいい。無理しなくったっていいよ。頑張ったねぇ」


嗚咽を漏らし、本格的に泣き始めた彼女には安心したように溜息をもらし、笑みを浮かべた。
















(2011.12.10)