「自炊できる男子はもてるらしいよ」
「顔が良くて、頭が良くて、自炊も出来る俺の相棒はかなりもてるって事だな」
「何でも出来るってずるいよね。神様ってのは不公平」
「それよりも早く自転車直してくれって」

八十神高校二年生、花村陽介。自転車に乗っては事故って壊す人。
そして私は。花村陽介の隣のクラス、実家が商店街の自転車販売店。

彼と私の関係性は『専属自転車修理士』というやつである。
とにかく漢字を並べておけば格好良く見える。
花村にそう言われて私はその肩書きを名乗らないけど使っている。
使っているといっても生徒手帳のメモ欄にひっそりと書いているくらいだ。
その肩書きを与えた花村はそのことをものの見事に忘れていると思う。
私一人が馬鹿馬鹿しいと言われそうなくらいその肩書きを大切にしている。

花村は自転車を壊すことにかけては天才だと思う。
最近修理したばかりだというのに店に持ってこられた自転車はボロに磨きをかけていた。
ボロに磨きをかけるとはいかがなものだろうかと思うが
使ってくれてボロになるならば自転車も幸せだろう。
使われずに放置され、ボロボロになっていく自転車と比べれば陽介の自転車は本当に幸せ。
フレームに付いた汚れを洗浄しながらそう思った。
さて、今回は破損してしまった前輪の修理。
パンクした数も結構なものになるのでタイヤの中のチューブを交換する。
女の子1人でパンクを直すのは力が必要で難しいと言われたりするけど
小さい頃からお父さんに教わって家業を手伝う私には造作も無いことだ。
サビ落としやらなんやらで汚れたり、肉刺だらけの手を見れば誰だって分かると思う。

「直ったか?」
「うん、直った。えっと……前輪が突然外れるってことにはならないよ。
 でもダメージが蓄積されすぎてるから新しいの買うのも考えといて」
「……ああ、分かった」
「手を洗ってきてから修理代教えるよ」

機械油で私の手は汚い。爪だって仕事のために短い。
マニキュアを塗ったって直ぐに剥げてしまう。
爪磨きで磨いても作業中に表面を傷つけてしまうこともある。
ならば肌だけでも綺麗にしようと思っている。
でも汚れてしまった手をこまめに洗って綺麗にしようとすればするほど荒れていく。
ハンドクリームを塗っていても焼け石に水のような状態。
私はこの手が嫌いだ。だからといって家業を嫌いと思ったことは無い。
私が修理した自転車が走っているのを見ると幸せな気持ちになるからだ。
だかしかし、幸せな気持ちになってもこの手を誰かに見られるのは嫌だ。
女の子らしくない手。同い年の子と比べられてしまったら絶対に酷評される。
酷いと自覚しているから他の人に酷いと言われるのが尚更辛い。

「直ぐに言葉が出なかった……バイク買うってのは本当なんだ」

手を洗い、冷たい水で赤くなった手をタオルで拭く。
花村がいつか言った「バイクを買うために貯金している」という言葉。
それを思い出し、ずっと頭の中をぐるぐると巡っている。
さっきの反応からその言葉が現実のもとなると分かる。
そうなったら私の『専属自転車修理士』という肩書きは消える。
自転車は直せるけれどバイクなんて分からない。
今からバイクの修理の仕方を勉強してみる?
完璧に分かるようになる頃には大学生になっているかもしれない。

「なんでこんな事考えるんだろう?」

私と花村の関係は自転車を壊す人と直す人。
学校で会ったら少し話す程度でそれ以上の関係ではない。
それ以上を私は望んでいるの?
私は花村のことを特別な存在だと思っているんだろうか。
自分のことなのに良く分からない。
冷えた手に血が巡り、ピリピリと痛む。
もしかしたらそれは胸の痛みだったのかもしれない。


「お待たせ、料金は千円。割引券あげるから次パンクとかしたら三割引。
次は明日か明後日だったりして、自転車大切にしてよね」
「おいおい、さすがにそれはありえねーよ」
「信用できないよ。普通、自転車のトラブルなんて人生で数回あるかないか。
私が花村の自転車を修理したの28回目。この自転車、本当に頑張ってるね」

触れすぎてすべてを知り尽くした花村の自転車。
タイヤの磨り減り具合、大きな傷の位置、壊れやすい部分。
全部分かる。持ってきてくれれば短時間で直すことが出来る。
どのよりも早く、正確に。私は花村の自転車を修理する時、それを心がける。
だから私以外の人に直してくれと頼んで欲しくない。

「悪い五千円札しかなかった」
「じゃあ、おつり四千円ね」

レジから千円札を四枚。洗ったから手を注視されないはず。
まだ赤い手で花村から五千円札を受け取って四千円を渡す。
花村の手は私よりも大きく骨張っている。
近所に出来た大型スーパー『ジュネス』の店長の息子。
それが他人がまず得る花村陽介という人間の情報。
自転車販売店の娘のと同じように花村陽介も働いている。
そのせいで花村の手には切り傷などが存在する。

「また怪我増えてる」
「ダンボール開ける時にカッターで切っちまったんだ。
 こんなの慣れてるし、今は全然痛くないから心配すんな」

  カッターって開けずに剥せば良いのにと思っても言わない。
ジュネスのバイトをしている友達からいかに忙しいか聞いている。
友達のように自分の持ち場があってそこの仕事をこなせばいい人と違って
花村は鮮魚コーナーに行くことがあれば、衣類コーナーに行くこともあるらしい。
広いジュネス店内の端から端まで駆け回る毎日。
それがどれだけ辛いか私には想像できない。
そんな私が簡単に花村の仕事に口出ししてはいけない。
心配ではあるけれど、心配するために使う言葉は押し殺す。

「手の怪我ならだって……」

四千円を受け取った陽介の視線が私の顔から手に向かう。
私はゆっくりと手をポケットに隠す。
内心ではすごく慌てていた。
手に注目されないように汚れを落としたというのに陽介の視線は私の手に向かっている。
私の醜い手を見られたくない。特に陽介には見られたくない。

「長いこと修理やってるから怪我なんてしないよ」
「そうか? タイヤ外す時とか力使うから慣れてても大変だろ」
「ううん、私って力持ちだから全然平気。ほら、今日も働くんでしょう?
 こんな店にいないでジュネスに行きなよ。他の店の人に見られちゃうし……」

商店街の人々からジュネスは嫌われている。
だから商店街の店の子の殆どがジュネスに行くことを止められた。
私の両親もジュネスに行くなと耳にタコができるほど言う。
別にジュネスが嫌いというわけではない。
私や自分達がご近所さんから色々と言われるかもしれないと怯えているだけ。
私は何を言われたって気にしない。
私のついでに花村も悪く言われてしまうかもしれない。
それがとても怖い。

「私、花村が悪く言われるの嫌だ。花村は花村なのに」

商店街の人は店員として陽介と関わることすらも好ましく思っていない。
花村の両親に対して冷たい態度をとるならばまだ納得がいくけれど
その子供である陽介に一体何の罪があるのか述べてもらいたい。

「ありがとよ。と小西先輩くらいだ、そんなこと言ってくれるの」

花村は笑った。でもそれはどこか泣きそうな笑顔だ。

本当に最近の事だ。
今年の四月十五日に小西先輩が、花村の好きな人が死んだ。
彼女のことは同じ商店街の酒屋の長女としか知らなかった。
花村と知り合ってからジュネスでバイトしている子だと知った。
そして彼女に対し花村が好意を抱いていることも知った。

商店街の子なのにジュネスに行くなんて色々言われたに違いない。
私がそれを一切知らないのはきっと両親がその中に加わっていなかったせいだ。
一体何を、小西先輩は何を思ってジュネスで働いていたのだろうか。
花村が好きになった人だからきっと魅力的な女性だったに違いない。
きっと私の醜い手とは違う、美しい手をした人なんだろう。
ポケットに隠した私の手は肉刺だらけでざらざらとしている。

「花村は何も悪くないよ。悪いことなんてしてないよ」

目の奥が痛かった。
私は気付いた。私は花村陽介という人間が好き。
だからこんなにも苦しい。
小西先輩と口にするだけで泣きそうな花村を見てると苦しい。
目頭から涙が湧いてこぼれていきそうで、私はそこを押さえた。

「お、おいっ! どうしたんだよ」
「……別になんでもない。早く、ジュネスに行きなよ」
「なんでもないなら目頭押さえて俯くかよ。それに手、血が出てる」

全身の血が沸騰したみたいに体が熱くなった。
特に顔が熱い。私の醜い手を見られてしまった。
あかぎれてしまった所から血が滲んでいるようだけれど見られたという事実の方が重大だ。
花村が目頭を押さえる私の手を掴もうとする。
私はそれを払いのけて手を隠そうとした。
だがそれよりも早く、花村は私の手を掴んで自分の胸の前まで引き寄せた。

「やっぱきつい仕事だよな俺もも」

血が滲んで部分に花村の指が触れた。
私の醜い手を花村が見ていて、しかも触れている。
恥ずかしいを通り越して泣きたいし、逃げ出したかった。

「絆創膏あるから貼ってやるよ。だから泣くなって、な?」
「痛くて泣いてるわけじゃ……ないから、平気だから、本当に平気だから」
「じゃあ何で泣いてるんだよ」

私は何も言えない。小西先輩に嫉妬したと言えるわけが無い。
花村の好きな人に対して醜い感情を抱いたなんて口が裂けても言えない。
ああ、涙が止まらなくなった。泣いては駄目だと思っても床へ落ちていく。

「泣いてる迷子の対応の仕方なら分かるんだけどな」

声だけで分かる。花村が困っている。
忙しい花村をこれ以上引き止めては駄目だ。
迷惑をかけたくないし、これ以上手を見てほしくない。

「放してよ。私、平気だって言ってるじゃない!」
「嘘吐くなよ! 泣いてるをほっといて仕事なんか出来るか!」

ぐいっと手が引っ張られ、私の体が傾いた。
花村は傾いた私を受け止めてそのまま抱きしめた。
胸板が頬に当たる。この状況を私の脳が把握するまで数秒を要した。
状況を理解した私は花村から離れようと身をよじる。
男の子の力に敵うはずがなく抱きしめられたまま私は上を向く。
花村と目が合った。

「は……花村、放して」

花村は何も言わずにじっと私を見ている。
彼はいつも誰かと楽しそうに話しているイメージがあった。
現に今日、くだらない内容だったけど私と楽しく話した。
無言の花村は初めて見た。

「そんなに見ないでよ。離れてよ、私って汚いから」

今日だって自転車を沢山弄っていた。
手は綺麗に洗っても体は埃や機械油などで臭うはずだ。

「頑張って仕事してる奴を汚いとか言えるかよ。

俺はの手を見る度に頑張ってる人の手って良いなって思うんだよ」
「う、嘘だ。こんな手、女の子の手じゃないよ。良い手なはずがないよ」
「怪我とかしてない手より俺はの手の方が好きだ」  

私は絶句した。花村の口から私に向けて『好き』という言葉が出た。
正確には私の『手』が好きだと言ってくれた。
頭が混乱してきた。これは白昼夢というやつではないのだろうか。
なら、私が何を言ったって現実は何も変わらないはずだ。

「私、花村のこと好き……なのかもしれない」

白昼夢。きっと現実の私は学校での疲れのせいで寝ている。
確証も無いのに私の口は思いを言葉にした。
言葉を付け足したのは頭のどこかで『もしこれが夢じゃなかったら』と考えていたのだろう。

「あのね……花村の自転車を直すのは私だけにして欲しい。
もし花村がバイクを買ったら、必死にバイクの勉強する。
その頃には花村はこの町にいないかもしれないけど、いつか直せる時が来るかもしれない。
私はこの商店街で生きていく、花村にとってここは辛い場所かもしれないけど
忘れないで時々帰ってきて欲しい。だって私は……」
は俺の『専属自転車修理士』なんだろ?」

これは夢ではない。頭の中で警鐘が鳴り響いた。
私はなんてことを言ってしまったんだろう。
勝ち目の無い戦いに挑みに行った馬鹿な私。
私のこの思いが花村に届くわけが無い。
最悪の場合、私は花村と二度と会話できなくなる。
そして花村の自転車を他の誰かが修理することになる。

「さっきまで言ってたの冗談なの、じょうだ……」

唇に何かが当たった。私の言葉はそれで封じられる。
私は目を大きく見開いて状況を把握しようとする。
視界には花村の顔。目蓋を縁取る睫毛がとても長かった。
頭の中で鳴り響いていた警鐘が止まった。
私は『これは夢だ』と再び思い込もうとしていた。

「俺は駄目で格好悪い男だ。それでもいいのかよ」

唇を離し、花村は私の耳元で囁いた。
真剣だと分かる声。だから私は正直に答えるしかない。

「花村は花村だよ。自転車の運転がヘタでよく壊す花村陽介が良いの」
「ひでー言われようだ」

花村が笑った。今度は本当に笑っていた。
私は勇気を振り絞って花村に抱きつく。
こんなことしてもいいのだろうかと一瞬考えたけれど直ぐに考えるのを止めた。

「花村、専属自転車修理士って覚えててくれたんだ」
「本当のことだろ。あと、俺のことは陽介って呼んでくれよ」
「陽介も私の事をって言ってほしい」
、自転車がなくなっても会いに来ていいよな?」
「もちろん、陽介が私に会いたくなったらいつでもどうぞ。
 私はずっとこの店で自転車を売ったり直したりするから、ここに来れば必ず会えるよ」

私はこの商店街から出て行かない。
夢が無いとか家業に縛られて可哀想だとか言われたって
私はこの商店街で生きていく。
私の世界はこの商店街とこの町と陽介で出来ている。

「これからもうちの店をご贔屓に、陽介にはサービスするよ」
「へー、どんなサービスだ」
「心ばかりのサービスですが受け取ってください」

今度は私から陽介の唇に唇を重ねる。
驚いた顔をする陽介を確認して、唇を離す。
陽介の顔が面白くて笑いそうになるのを必死に堪えた。

「何が心ばかりだよ。とんでもないサービスだろーが、俺以外にはするなよ」

顔を真っ赤にしてそっぽを向いた陽介はそう言って
そそくさと自転車に乗って凄まじいスピードでジュネスへと向かっていく。

「大丈夫、このサービスは陽介以外にするつもりは無いよ」

陽介の危なっかしい運転姿を見つめながら
私は触れた感覚がまだ残っている唇をそっと撫でた。
あの調子だと明日にでも陽介は自転車を持って私のところへ来るのだろう。
『専属自転車修理士』と思い浮かべると醜い手が自分でも良い手だと思えた。 



心ばかりのサービス