目の前に鎮座する謎の物体を穴が開くほど見つめた後、花村陽介は恐る恐る口を開いた。

「な、なぁ、。一応聞いとくけど、これは……なに?」
「ケーキに決まってるじゃない」

ケーキ!?これが!?
花村の知っているケーキというのは、形は丸く、ふわふわのスポンジが白い生クリームで優雅に縁どられ、色とりどりのフルーツが並ぶまるで宝石のような、そう、ケーキとは食べる宝石であるはずだ。
しかし目の前のアレはなんだろう。
花村がアレと呼んだ物体は、でこぼこの表面に毒々しい紫のクリーム(らしきもの)が塗りたくられ、スポンジの断面からは赤や緑の物体がうようよと流れ出ているのが見えている。
ここまで『ドロォッ』という音が似合いそうな食べ物は他にあるまい。

(外国のお菓子とか、たまにこんなの見かけるよな)

ジュネスで働く花村は仕事中に見かけた目にも体にも悪そうな着色料たっぷりの輸入菓子を思い出し、ゴクリと唾を飲んだ。
決して興味を引かれたわけではない。命の危機を感じたのだ。

「見た目はちょーっと悪いかもしれないけど、味は保証するからたくさん食べてね」
「『ちょーっと』っていうレベルか?」

これが。

「なによ、ブツブツ言ってないでさっさと食べなさいよ」

皿にケーキを取り分け、ご丁寧にブスッとフォークまで刺してくれる。
逃げ場はないか、どくだみ茶は持ってきたか。花村は現実逃避の道を探した。

「さぁ、召し上がれ」

あっさり退路は絶たれた。
ただでさえドロドロだったケーキ(とおぼしきもの)は、皿に取り分けた際にさらに崩れ、紫色のクリームとボロボロのスポンジが混じりあって異様な恐ろしさを醸し出している。

「食うのか、これを」

はにこにこと花村を見守っている。ケーキを食べるまで解放してはくれなさそうだ。

「まじで食わなきゃだめ?」

花村は最後まであがき続けた。諦めの悪さこそがこの男の美点であった。
しかし、

「つべこべ言わずにさっさと食え」

とびきりの笑みを浮かべたに反撃のチャンスも撃沈される。
花村は腹をくくった。ゴクリと唾を飲み込み、恐る恐るケーキを口元に運ぶ。
ぷるぷると震える手。目の前に迫る紫色の物体を意を決して口の中に放り込むと、体温が沸騰したような気がした。

(うわー、まず……くない)

あれ。花村は目を開いてモゴモゴと口の中の感触を確かめる。
念のためもう一口頬張って、味覚をフル稼働させてみるが、やはりまずくはない。
というより、

「うまい!なんでだ?こんなグロテスクな見た目してるのに」

「一言多い」とに突っ込まれたが花村は気にも留めず、もう一口もう一口とケーキを口に運ぶ。

「まじでうまいな、これ。見た目に騙されたぜ」

口の端にクリームがつくのもおかまいなしに食べ続ける花村にはホッとしたような笑みを浮かべた。

「あのさ、花村は千枝や雪子とも仲良いじゃん。お菓子食べたりしないの」
「お前あの二人の料理食ったことあるか?あれはもはや食べ物じゃない、即死魔法だ。これとは全然違う」
「そ、そっか」

「即死魔法とはなんぞや?」と思いつつ。
「そっか」と声に出す度はにかむに気づかず、花村は一心不乱に食べ続ける。
やがてケーキを平らげたところで、

「はー、やっぱ労働の後の甘いものは最高だな」

とのたまった。食べる前はあれほど嫌がっていたくせに。

「花村、最近放課後ずっと働いてるんだよね?」
「そうなんだよ、今バイトが一人辞めちゃって忙しくてさ」
「あ、あのさ。もしよかったら、ケーキまた作ってあげようか?ほら、疲れてるとき甘いものがいいって言うし、私も食べてくれる人がいた方が作り甲斐があるし、その……嫌じゃなかったら」
「おっ、どうした!が親切なこと言ってる。なんか悪いもんでも食ったか?」
「どういう意味!」
「ははは。今日食べさせてもらったので十分だよ。気持ちだけもらっとくわ、ありがとさん」

そう言ってひらひらと手を振って見せる。

「じゃあな、また明日」
「また、明日」

バイバイと小さく呟いても手を振る。花村は屈託ない笑みを浮かべて自転車を漕ぎだしていった。
その後ろ姿を見送りながら、はそっと息を吐いた。





「それって、花村先輩に気があるんじゃないすか」

昼休み、完二に指摘されて花村は目をぱちぱちと瞬かせた。

「まさか!相手はあのだぜ。そんなわけねえって」
「そうっすかねー。いまどき手作りケーキなんて好きでもない相手に作らないと思うんすけど」
「お菓子作りにはまってるって言ってたから。試食係にされたんだよ」

試食係というより、実験台?みたいな風貌のケーキだったけれど。

「いや手作りって結構手間ひまかかるんすよ。それがどれだけ大変か……」

完二はなおも手作りに込める思いを語り続ける。右から左に聞き流しながら、花村はもう一度己に問うてみた。

(がおれに気がある?まさか!)

だって相手はあのだ。ずっと友達で、たぶんきっとこれからも友達で。憎まれ口を叩いたり、馬鹿なことで笑いあったりできる、大事な友達。
ふいに口元に手をあてる。昨日のクリームの甘さがまだ残っているような気がして。
そのとき隣を歩く完二が足を止めた。

「あれ、先輩じゃないっすかね?」
「おお相棒だ。なにやってんだ、あんなとこで」

完二が見つめる先には見慣れた親友の姿があった。
花村も自然とその視線の先を追い、飛び込んできた光景に息をのむ。
親友と向かい合うように立っているのは、?
可愛らしいビニール袋に入ったなにかを親友に手渡している。

「おっ、ラッピングから察するに中身はお菓子っすね。手作りかな。いやーさすが先輩」
「モテるっすね」という完二の言葉を耳の奥で聞きながら、花村はその場から動けなかった。





ピッピッとバーコードを読み取る機械音がどこかで鳴っている。賑やかな喧騒も陽気なジュネスのテーマソングも遠く違う世界の音のように聞こえた。
花村は無言で手だけ動かす。段ボールから商品を取り出し棚に並べていく単純作業は自然と思考を他のことへ向けさせる。
昼間見た光景が忘れられない。

「花村、それ違う棚の商品じゃない?花村、ねぇ聞いてる?ねぇってば」
「うわぁっ!」

現実に引き戻されると棚に並んだまったく違う商品に驚く。そして隣を見てさらに驚く。

「なんでがここに!?」
「なんでって買い物しにきたんだよ」

買い物かごを軽く持ち上げては棚に視線を戻す。

「なにボーっとしてたの?」

棚にはまったく違う商品が並んでいる。まったく気づかなかった。花村は棚から視線を動かさない。昼間見た光景が頭をよぎってのことをまともに見れない。

「花村?なんか様子が変だよ」

心配そうに覗き込むの瞳に、バクバクと心臓が大きく跳ねる。しかし口から漏れた言葉は上がる体温とは反対にとても冷たい声だった。

「おれは、毒見役だったんだな」

「え」とが聞き返す。考えがまとまっていないのに、一旦口をついて出た言葉はとめどなく流れ出した。

「はは。なんだよ、初めからそう言ってくれればいいのによ。まぁ、相棒があの毒々しいケーキを見てたらうまくいくものもうまくいかなかっただろうから、おれが先に食べてよかったな」
「花村、なに言ってるの」
「手作りのケーキなんて滅多に食ったことないからさ、しかもまた作ってくれるなんて言うから、おれ盛大な勘違いしちゃうとこだったぜ。もしかしたらおれに気があるんじゃないか――とか。いやほんと。大恥かくとこだった」

はじめからその気がないなら勘違いさせるようなこと言うなよ。
心とは裏腹の言葉ばかりが零れる。

「ははっ、おかしいだろ。お前も笑えよ」
「花村、なんか誤解して……」

バシンッ!エプロンの裾を握ろうとする手を思わず払いのけた。

「あ、……わりぃ」

すぐに謝ったものの、は笑ってはいなかった。目にいっぱいの涙を湛えて、行き場を失くした手は宙を彷徨っている。
まっすぐ向けられる視線を受け止めることができなくて、花村はすぐに目をそらした。

「……ケーキは、花村に食べてほしくて、作ったんだよ……」
「うそだ!じゃあ昼間相棒に渡してたのはなんだんだよ?」
「あれも、花村に」

「渡してもらおうとして……」の言葉はだんだん小さく消えていく。

「私が好きなのは」

震える手がもう一度エプロンに伸びる。裾をギュッと握りしめて、は涙が溢れないように唇をきつく噛みしめていた。
それ以上、一言でも口を開けば目から涙が零れてしまいそうだった。

「……っ」

言葉にならない声が漏れる。エプロンの裾を握りしめたまま小さく震えるの手に自分の手を重ねた。

「ごめん」

の手がびくりと跳ねる。拒絶された――そう思いはなれようとするの手をつなぎとめた。

「おれはてっきり……は相棒のことが好きなんだと思って」

一呼吸おくと、大きく見開かれた目をひたと見据える。

「嫉妬した」

の目からぽろぽろと涙が零れだす。

「ごめん。おれが悪かった。だから、もう泣くなって」

こくんと頷くの目からはなおも大粒の涙が溢れる。繋いだ手を引き寄せ、片手で頭を欠き抱くように胸元へ寄せる。

「もう泣くな」

腕の中でがもう一度頷いて、涙が止まるまで花村はを抱きしめていた。





仕事を終えて店の外へ出ると、出入り口に相棒が立っていた。

「これ、『仕事が終わったらみんなで食べて』って預かったんだが、もういらないみたいだな」
「あー!お前それ!ってかなんだよ、いらないって」

相棒が手に持っているのは昼間が渡していた包みだ。やはり中身は手作りのお菓子らしい。

「もう、ヨースケったらクマのチャンとラブラブになっちゃうなんて酷いクマ!」

相棒の背後からクネクネと体を躍らせながらクマが出てくる。常に芝居がかっているクマだが今日はいつもより一層テンションが高い。

「だれが『お前の』だよ!ってか、なんでラブラブって知って……?」
「そりゃあ、あんな店の真ん中でいちゃついてたら」
「みんなにばればれクマー!」

サーっと血の気が引いた。

「チャンのハートだけじゃなくお菓子もいただこうなんてヨースケずるいクマ。クマは許さないクマ!というわけで、このお菓子はクマのものクマ」
「あっ!お前なにしてんだよ、返せ!」
「いやクマー。お菓子かハートかどっちか選ぶクマ」
「馬鹿野郎!どっちもおれのだ!」