開店前に出勤する時はいつも慌ただしい。
店内外の清掃、食材の補充、ケーキ類の作成や下準備等々。
開店1時間前には取りかからねば、間に合わせることができない。
スラックスと白シャツというラフな格好で出勤し、馴染みのエプロンを身につければ安室透の出来上がり。
1分も無駄にしている場合ではない。やらなければならないことは山のようにあるのだから。
仕事の段取りを頭で組み立てながら、ロッカーから箒と塵とりを持ち店外へ。
チリリンという小気味よいベルの音が響き、ドアを開くと共に差し込む朝日。
この時期早朝からたっぷり日差しが注ぎ、ともすれば汗ばむくらいだ。
とっとと終わらせて中に入ろう。今日の日替わりランチのメーンは何にしようか。
道端に落ちている吸殻を一つ、二つ塵とりに掃いたところで、ふと植え込みに人影があることに気がつく。
スーツを纏った女性がレンガ造りの花壇に腰かけ、ヒールの折れたパンプスとそのヒールを持ち途方に暮れているではないか。
泣きそうな面持ちで足首を押さえていて、思わず声をかける。

「大丈夫ですか?」

弾かれたように顔を上げた彼女と視線が絡み、はあと何とも曖昧な返答をし肩を強張らせたことから、警戒されていることに気がつく。
見知らぬ男から声をかけられれば、この反応はごく当たり前のこと。
それ以上距離を詰めず、膝をついて努めて優しく語りかける。

「僕はここの店員です。辛そうな表情をされているので、声をかけました。大丈夫ですか?」

強張った表情が一変し、彼女は安堵ともため息ともつかない長く息を吐き、恥じ入るような困ったような笑みを浮かべる。

「そう、だったんですね。私、てっきり何かに勧誘されるのかと」

そう告げると彼女は何を思ったか、片方靴を履いたまま立ち上がると壊れたパンプス片手に踵を返す。

「お店の前でごめんなさい」

そのまま去ってゆこうとするものだから、慌てて引きとめる。

「そのまま行くおつもりですか?」
「え?ええ。近くに靴屋さんもありませんし」
「でも足、捻っているでしょう?」
「我慢できないって程じゃないですよ?」

ということは、我慢しなければ痛いということ。であれば尚更このまま行かせるわけにはいかない。

「コーヒーを一杯飲む時間、ありますか?その間に応急ですが足の手当てと靴を直します」
ぎょっとして首と手を大げさに振り、悪いです!と声を荒らげる彼女。
そこまで親切にしてもらう謂われはない、と言いたいのだろう。見ず知らずの男にそこまでされれば怖いという気持ちもわかる。
けれどこのまま、ひょこひょこと歩いて行く彼女を見送っては目覚めが悪い。
そう伝えると、ばつが悪そうにしつつお願いします。と頭を下げたので、彼女に手を差し出す。

「えっと、あの?」
「歩き辛そうですから。どうぞ?」

目を瞬かせじっと手を見つめるので、そう伝えるとあちこち視線を彷徨わせた後、そっと手のひらにちょこんと指を乗せる。
これでは支える意味がないと、遠慮なく手を掴み引き寄せると、彼女がビクリ震えるので、思わず顔を覗き込む。

「すみません、痛みましたか?」




端正な顔立ちが急に目の前に現れると、見入ってしまうのは女の性だろう。
女性が憧れるようなさらさらの金髪、肌の色は浅黒く色気を醸し出している。
特に惹かれたのは、日本人離れした深海のような碧眼。
日の光が反射したうたゆ波間のように、色が変わりキラリと輝きとても美しい。
思わず頬を赤らめたのは仕方がない。だって彼は顔がいいのだから。
あの、と戸惑う彼にはっと我に返り、頭を振る。
イケメンパワーは恐ろしい、と改めて思いつつ問題ありませんと平静を装い喫茶店の中へ。
少しレトロな店内は日の光に照らされ、ますます懐かしさを感じさせるアットホームな雰囲気に包まれている。

「すてきなお店」
「ありがとうございます。では、こちらに座って」

椅子に腰かけるまで完璧なエスコート。
ぼうっとしている間に、彼はテキパキと足の手当てを終えると、コーヒーの準備をしてきますと笑顔で厨房へ下がってゆく。
あれは相当なモテ男だな、と背中を見送り時間を確認すると深いため息をつく。

今日は起きてから何かとタイミングが悪い日だった。
目覚ましが電池切れを起こして鳴らず寝坊し、駅までの道を急いで駆けたが電車を一本逃し、慌てて家を出たために名刺入れやスマホの充電器を忘れ、外回りに出る際先輩の資料と取り違え・・・思い返しても不運続きだ。
挙句靴のヒールが急に折れ、その衝撃で軽く足捻ってしまう。
まだ午前中だというのに、今からクライアントのところへ向わなければならないのに、こんなことで心折れたくないとじわり涙が滲んできたところで、あのイケメン店員の登場。

やっぱり出来過ぎちゃいないだろうか。
まさか彼は新興宗教の勧誘の人、とか?捻挫の手当てと靴の応急修理代の代わりに、自己啓発のセミナーに参加しませんか?とか爽やかな笑顔で、かつ断れないよう畳みかけてきたり?
今日の私の不運さならあり得る話だ。
さっと血の気が引くのを感じ、オープンカウンターの厨房でサイフォンに向かっている彼に視線を走らせる。

とても真剣な眼差しでコーヒーを淹れ、カップやソーサーを準備しつつ、無駄のない動きで厨房を飛び回っている。
思い返せば店のドアに準備中と書かれた札が下がっていた。
開店前の忙しい時間帯に、見ず知らずの女を引きいれるだろうか?
ますます宗教勧誘の線が色濃くなり、早く立ち去るべきだと荷物を纏めようとしたところで、ふわりと香るコーヒーの香ばしい匂い。

「お待たせしました」

笑顔で差し出されたコーヒーカップはかすかに湯気が立ち上り、横に添えられたカップケーキはふっくら焼き上がり、かぶりつくとバターの香りが口いっぱいに広がりそうだ。
朝食を食いっぱぐれた身には、これを食べずして立ち去ることなどできない。いやしてはいけない。

「ランチの食後に添えようと昨夜準備しておいたものです。良ければお茶うけに」
「あ、ありがとうございます!」

早く立ち去ろうという気は吹き飛び、まずはコーヒーを一口。
深いローストの香りが鼻梁を通り抜け、程よい苦みとほんの少し甘みを感じる後味。
なんておいしいコーヒーなのだろうか。某有名コーヒーチェーンでもこんな味のものは飲めない。
目を見張ったままカップケーキにかぶりつくと、予想通り口いっぱいにバターの香りが広がる。
なんて幸せな味なのだ。満足げにふっとため息をつくと、くすくすと肩を震わせるイケメン店員の姿。

「ああ、いえ、すみません。とても美味しそうに召上がるものですから、つい」
「とっても、とっても美味しいです。特にコーヒーは、今まで飲んだどのコーヒーより遥かに。このカップケーキも程良い甘さでふわふわ、何よりバターの香りがとってもいいです」
「それは良かった。僕も作った甲斐があります」

その口ぶりはまるで自分が作ったと言わんばかりで、思わず目を見張る。

「これ店員さんの手作りですか?」
「ええ。ここのスイーツは僕が。ちなみに僕は安室透と言います」

そうして安室さんはウィンクを一つ。
もて男の見本のような人だな、とコーヒーを啜っていると急に彼が意地悪そうな笑みを浮かべ、ところでと話を切り出す。

「先ほど帰られようとしていましたが、何か急用でも?」

ギクリと肩を揺らす私に、彼は畳みかける。

「急用でないなら、僕のことを警戒してですね?そうだな・・・何かに勧誘されると仰ってましたし、僕が新興宗教の勧誘者でセミナーに誘われる、とでも?」

何、この人エスパー?もう一口齧ろうとしていたカップケーキを取りこぼすと、安室さんはブハッと吹き出し肩を揺らして笑い始める。

「僕そんなに胡散臭いでしょうか?」
「正直に言っても?」
「ええ、どうぞ」
「大変胡散臭いです」

すると彼は面白いものを見るような目つきで、続きをどうぞと促すので改めて彼に向き直る。

「まず初めに、ここまでして下さったこと本当に感謝しています。ご厚意に甘えさせていただき、何とお礼を言っていいやら。本当にありがとうございます」

これは社会人の基本であり、間違いなく本心からの感謝だ。
研修で叩き込まれたお辞儀をし、顔を上げると安室さんはきょとんと目を丸くさせている。
どうやらお礼を言われるとは露とも思っていなかったようだ。
おとぎ話の王子さまのように、完璧に振る舞う人の表情を崩せたのはちょっと嬉しい、優位に立てた気がして。
にっこり笑みを浮かべると、私の意図に気づいたらしい彼は肩を竦め、どういたしまして。と答えたところで、改めて疑問を口にする。

「けれどメリットがないじゃないですか。勧誘くらいしないと割に合いませんよ?」
「確かにあなたが仰ることも一理あります。けれどメリットなら勧誘しなくても、既に得られました」

首を傾げる私をすっと指差し、不敵に笑う。

「あなたというお得意様を得られました」

本当のイケメンというのは、何を言っても何をしても見惚れてしまうものなのだろうか。
顔が熱を帯びるのを感じ、咄嗟に反らしつつ頷く。
確かに安室さんの言うとおり、私は喫茶ポアロの常連客になろうとしている。
だって本当にコーヒーは美味しいし、このカップケーキも絶品だし、彼お手製だという他のスイーツも食べてみたいし、何より込み合っていない喫茶店というのは本当に心地が良い。

「こんないい喫茶店を知れたのは本当に幸運です。もちろん、これからも通わせていただきます」
「ええ、ぜひ」
「ところで安室さん。よく私が貴方を宗教勧誘者だと勘違いしていること、分かりましたね」

本当に心を覗けるエスパーなんじゃないだろうか。

「ああ、僕探偵をやっているんです」
「え?じゃあここは・・・」
「アルバイトで働かせてもらっています。僕、名探偵の毛利先生の弟子をさせて頂き、色々学ばせてもらっているんです。ちなみにこの上、毛利探偵事務所ですよ」
「あの眠りの小五郎、っていう探偵さんのお弟子さん?」
「先生にはまだまだ遠く及びませんけれど」

照れたように笑う安室さんは目をキラキラさせて語り、いくつかエピソードを聞かせてくれた。
くるくると変わる表情は子どものようで、碧眼も表情にあわせ薄くなったり、濃くなったりを繰り返す。
内容は勿論聞いているけれど、私が惹きつけられたのは安室透という人の一挙一動だ。
子供のような可愛らしい反応を見せたかと思えば、王子さまのような紳士的な振る舞いを見せ、ふとした時に色気を孕んだ笑みを浮かべたりする。
こういう人を魔性というのだろう。探偵をしているとなれば、頭の回転が相当早いはず。
自分がどういう表情で声色で、笑い話せば良いか分かっていてやっているのだろう。
分かっているのに、どうしようもなく目が離せなくなる。イケメンの魔性は恐ろしい。

「と、話はここまでに。靴も応急ですが修理を終えました」

根元から折れたヒールは折れる前の形状を保ち、どこからどう見ても靴だと分かるようになっている。

「探偵さんって何でもできるんですね」
「スキルが多いことに越したことはないですから」

ヒールを履き、靴に異常がないことを確認すると安室さんは満足そうにうなずく。
そろそろ店を出ねば靴を購入する時間がなくなってしまう。
名残惜しいが仕方がない。荷物を纏めお会計を済ませようと財布を取り出すと、彼は手でそれを制する。

「僕からサービスです。次回お代は頂きますけど」

これは断っては失礼になるだろう。素直に好意を受け取り、店外へ。
白昼夢でも見ているような、素敵な時間を過ごさせてもらった。
そう告げると、彼は照れたような安堵したような表情で笑う。

「それはよかった。お仕事、頑張ってください」
「はい。ありがとうございました」

会釈をしつつ、ドアを潜るとドアベルのチリリンという小気味よい音と共に、安室さんの声が追いかける。

「またのお越しを。さん」

パタンと閉まったドアを思わず凝視する。
何故彼は私の名前を告げたのか。いつ知りえたのか、知りたい!けれどもうそんな時間はない。
一瞬見えた不敵な悪戯っぽい笑みに、さっと頬が赤らむ。

「やられた」

ああ、だから魔性の人は怖いんだ。でもこれが癖になって通うのだろう。
そしてそんな彼に虜な人は、私以外にも沢山いるんだろう。予測ではなく断言できる。

「安室透さん、か・・・」

今度はいつポアロに行けるだろうか、そうして彼に会えるだろうか。
そんなことを考えていたら、いつの間にか足の痛みは引いていた。