安室さんというイケメン店員とフィクションな出会いを果たし、かといって何かあるはずもないまま、アラサー彼氏なしの社畜――はすっかり喫茶ポアロの常連客に昇格した。
美味しいコーヒーやスイーツはもちろん、軽食も絶品でかつもう一人の店員の梓さんとすっかり意気投合し、心が折れそうになったときや、気分を変えたいとき訪れるとすっかり心とお腹が満たされ、前向きな気持ちになれる私の“充電場所”として有り難く来店させてもらっている。
安室さんに改めてお礼を伝え、以来顔見知りになり世間話はするものの、梓さんとのお喋りに夢中になってしまうためそれ以上の交流はない。
どうやって私の名前を知りえたのか、どうやったらあんな美味しいコーヒーがいれられるのか、ずっと聞きそびれていることだけが少し心残り。

梅雨に入り連続降り続く雨で、外回りに赴くと服も足元も濡れるし、纏わりつく湿気は不快だし、気持ちも滅入ってくる。更に追い打ちをかけるよう、苦手なクライアントと会わなくちゃいけないし。
そう、こういう時こそ喫茶ポアロで癒されなければならない。
ランチタイムにギリギリ駆け込めれば、ハムサンドにハム増し増しでオーダーしたい。

「いらっしゃいませ」

チリリンと可愛らしいドアベルに似合わない、低いけれどどこか甘い声。
ふと顔を上げると笑顔の安室さんが厨房の奥から、顔をのぞかせている。

「こんにちは。ランチタイム間に合います?」
「ええ、さんの為ならもちろん。どうぞ」

キザなセリフが大変お似合いで、今日も笑顔が眩しい。
イケメンにこうも歓迎されるのは嬉しいもので、すっかり気分が軽くなる。
濡れた服や荷物を軽く拭い、足元も同じくタオルで水分を払っていると、おしぼりとグラスを持って安室さんがカウンターに現れる。

「午後から勢いを増してますね、雨」

爽やかな甘い香りのするおしぼりを受け取りながら、安室さんが視線を投げた先を追う。
出窓に打ち付ける無数の雨粒。通りをゆく人々は傘を斜めに持ち、足早に去ってゆく。
店内にいても音が聞こえる程強まる雨脚に思わず顔が引きつる。

「この後クライアントの元へ行かなきゃなんです…ついてない」
「そう気を落とさずに。食事をしている間に小降りになるかもしれませんし」

なんて言葉を交わしながら、ランチのメーンにはハム増し増しのサンドイッチを注文する。
キッチンに下がる彼を見送り、水でのどを潤しつつ一息ついていると、カウンター越しの目の前にいる安室さんと視線が交わる。
不覚にもドキリとしていると、そういえばと彼が切り出す。

「今日梓さんはお休みで」

いつも彼女とのお喋りを楽しみにしている私に、気を使ってくれたのだろう。
残念だけれどタイミングが合わないこともあるし仕方がない。
それならばせっかく誰もいないことだし、ずっと聞きそびれていたことを聞いてみよう。

「私が初めてポアロに来店した時、帰り際私の名前を口にしたでしょう?」
「ああ、宗教勧誘者に間違われた日の」
「だ、だからそれは…申し訳ないです」
「いいえ。僕、胡散臭いので」

結構根に持っているらしい。返す言葉もなく言葉を詰まらせる私に、彼が噴き出す。

「ごめんなさい、意地悪でしたね。面白い反応をするさんをつい、構いたくって」

作業の合間にチラリと寄せられる瞳にふいに胸が高鳴る。
イケメンさんは何しても許されるよなあ、とぼんやりしていると、社員証ですと安室さんが唐突に告げる。

「胸ポケットに入れていた社員証が覗いてまして、つい視線を走らせました」

探偵を職業としている彼の“職業病”みたいなものだろう。

「些細な事も見逃さないんですね。あ、そっかだから初めて私に話しかけた時も、怖がらせないよう距離をとってしゃがんでくれて」

私は注意力散漫気味で凡ミスもするし、一つのことに集中してしまうと周りが見えずらくなる。
だから安室さんのように広い視野を持ち、気配りできる人は本当に尊敬する。
そう告げると彼は手をピタリと止め、勢いよく顔を上げた。
目を見開ききょとんとした表情は、普段の色気全開の彼とはかけ離れ、少年の面影を残したもので。

「しょ、職業柄でしょうか。警戒心を持たれては仕事になりませんからね」

いささか上ずった声でそう早口に告げると、俯き作業に戻る。
もしかして褒められて照れたとか?まさか褒められ慣れているだろうし、私じゃあ役不足だわ。

「普段よりハム、更に増しますね。オマケですから、梓さんにはナイショですよ?」

唇に指をあてウィンクを一つ。うん、いつものおちゃめでかっこいいキザな安室さんだ。

「ありがとうございます!あー、お腹すいたなあ」

すっかり頭はハムサンドのことで一杯になり、彼がどんな顔をしていたかなど知るよしもない。





驚いた。俺の心情を表すならばその一言に尽きる。
さんは俺に苦手意識を抱いているようだったから、まさかあそこまで手放しに褒められるとは。
なんとか安室の仮面を被り誤魔化したものの、ドクンと高鳴った鼓動は未だ短い間隔で脈打ち微かに頬が熱い。
なんとか肌の色で誤魔化せており、初めてこの日本人離れした容姿が役立つものだと認識を改める。
下心のない褒め言葉はどうにも慣れない。
ポアロで共に働く梓さんもそうだが、彼女達は思ったことを口にし表情に出す。
職業柄どんな相手も裏があると疑ってかかり、信用せず安易なことを口にせず、少しでも相手のことを聞き出そうと腹の探り合いをする。
それが安室透、もとい降谷零が生きる世界であり、そこに生きる者として覚悟はとうについており後悔は微塵もない。
それで国民の平穏が守れるならば。
けれどふと胸を抉るような寂寥に襲われる時があり、公安の降谷零でいることに嫌気がさすこともある。
そんな時自然体で気軽に話ができる相手がいれば、どれほど救われるか。
逝ってしまった仲間たちに思いを馳せた夜がないわけじゃない。

感傷的になっているものの、表情には微塵も出さず目の前で美味しそうにサンドイッチを頬張る彼女を眺める。
幸せそうな表情で噛みしめており、これは作った甲斐があるというもの。
きっと頭の中はサンドイッチおいしいで、いっぱいだろう。

「ここ、ついていますよ」

口角の端にくっついているパン屑を取り口へ放り込むと、間を置いて頬を真っ赤に染め上げ、これだから魔性のイケメンは!と憤懣するさん。
くるくる変わる彼女の表情は見ていて飽きず、その上大変微笑ましくあり、何も警戒せず気軽に会話を楽しむことができる。
梓さんとはまた違う親しみやすさと、予想の斜め上を行くさんの言動や仕草は見ていて飽きず面白い。
今度はいつ彼女に会えるだろうか、次に会うときは梓さんとの会話に混ぜてもらおう、どんな会話をしようか。
些細な世間話を重ねるうち、いつの間にかさんに会うことが待ち遠しくなっているなんて。
懐かしい友と話しているような居心地の良さに心が温かくなり、けれどどこかむず痒くて。

「むろ―さ、安室さん?」

呼び掛けにはっと我に返ると、彼女の顔が予想以上に近く思わず身を引く。

「は、はい。何でしたっけ?」
「だからコーヒーの淹れ方のコツ、知りたいんです。家でドリップタイプ試したら酸っぱいコーヒーにしかならなくて」

それは一度に沢山お湯を注ぎ過ぎだ。そう口をつきそうになり、慌てて言葉を呑みこむ。

「器具や豆の状態で変化しますからね。ぜひうちで飲んで行ってください」

嘘は言っていない。が、的確なアドバイスを告げることを何故か戸惑ってしまい社交辞令のようなセリフが口をついて出る。
するとさんは何かに気づいたようにあ、と声を上げ手を打ってはニヤリと口角を吊り上げる。

「企業秘密ってやつですね?」
「・・・まあそんなところです」

誤魔化せたが何故俺は、咄嗟に言葉を呑みこんだのか。
美味しくコーヒーを淹れられるようになれば、さんがここに来ることが減るのではないだろうか。
考えがそこに行きつき気づいたら、別の理由を口にしていた。
それ程俺は彼女との会話に飢えているのか・・・いやまさか。でもこれじゃまるで恋をしているようではないか。
そこまで考え安室は頭を振り、下らない考えを追いだす。
一時的な気の迷いだ、そしてそれは見逃せない隙を生み出す原因にもなりうる。

「安室さん、コーヒーおかわり下さい」
「かしこまりました」

 ソーサーを受け取る時指が触れあい、微かに高鳴る鼓動に見て見ぬふりをした。