愚痴と言うのは中々収まりがつかないものだ、酔っているなら尚更。
隣でジョッキ片手に管を巻き続ける先輩をなだめつつ、店員さんにお水を頼む。
「なんであいつが先に出世して、あたしが後なのよ・・・女だから?!女だからかー!」
「せ、先輩もうそれくらいに」
「うるさーい!あたしは、あたしは会社のため身を粉にして尽くしたのにー!」
ぎゃーぎゃー騒ぐだけ騒ぎ、机に突っ伏す。
被害に会う前に各々酒やつまみを避難させるのだから手慣れたものである。
「あたし連絡役だって上手くやってるわよ?なんでよー、なんでー!」
その謎の叫びを最後に寝息を立て始める先輩。
計らったようにお開きになる二次会。今日もタダ酒で酔えなかった。
飲みたい気持ちはあるが、誰かが騒ぎ始めるとつい世話を焼く羽目になり、結局酔えずとぼとぼと帰宅するのが習慣と化しており数年続けば、世話をやいてくれる人だと認識されるようになり、次第に問題児とセットにされる訳で。
後輩が後は私たちに任せて!と背中を押してくれたのは大変助かった。
ため息をついて酔っ払いが行き交う繁華街を、誰にもぶつかれないようすり抜けてゆく。
こういうところで男にでもぶつかってみろ、因縁つけられてグダグダに絡まれるんだ。
一人飲むなら比較的治安のよい、お高めのバーでと決めている。安全は何にも代えがたいから。
「んだ、痛ってえなあ!」
なんて考えているとややこしいのにぶつかってしまうのだから、元々運が悪いのだろう。
顔を赤らめたスーツ姿の中高年男性が、これまた鋭く座った目で私を見下ろす。
「ごめんなさい、よそ見をしていました」
こういうときは、なるべく視線を合わせずひたすら謝るしかない。
相手は酔っ払いだし相手をしていてはきりがない。
予想通り相手の男は泥酔状態らしく支離滅裂なことを私に向かって叫ぶ。
当然だが助けてくれる人は誰もいない。
罵声を浴びながら、私何やってんだろうな帰りたい。と聞き流していると、男が更に声を荒らげる。
「聞いてんのか!おめーまで俺をバカにしやがって!これだから女は嫌いなんだ!今すぐ俺の目の前から消えろ!」
今日のは相当酷い、どんな顔をしているのか見てやろうと視線を投げ血の気が引いた。
男が拳を振り上げ今にも私に向かって振り降ろそうとしているではないか!
咄嗟に鞄で頭を守り、やって来るであろう衝撃に身を縮ませていると。
「僕の連れに何か用ですか?」
聞き覚えのある色気あふれる声に視線を向けると、男の腕を掴んでいる一人の男性。
褐色の肌に金髪碧眼。端正な顔立ち、日本人離れした抜群のスタイルの持ち主。
こんな人一度見れば忘れられるはずがない。
「安室さん」
私の呼び掛けに彼はウィンクを一つ投げると、声を荒らげる酔っぱらいを紳士的に諌め、事も無げに追い払った。
Vネックシャツに黒のジャケットを羽織った姿は、雑誌の中から飛び出したモデルそのものでしばらく見惚れる。
大丈夫でしたか?と声をかけられたことで、ようやく我に返り首を縦に振る。
「ありがとうございました。助かりました」
どうにか声に出すことはできたが、やはり先ほどの恐怖は拭いきれない。
あと少しで見ず知らずの、それも力では叶わない相手に殴られるところだったのだから。
震えそうになる手をぎゅっと押さえていると、その手に重なる大きな褐色の手。
はっとして顔を上げると、安室さんが予想以上に近くふわりと香水の爽やかな香りが鼻を掠め、心臓がズクンと大きな音を立てる。
「無理をしないで。怖かったでしょう」
心配そうな表情に恐怖など吹っ飛び、早鐘のような鼓動が聞こえるのではないかと心配になり手を払って距離を取る。
何とも言えない空気が二人の間に流れ、誤魔化すように笑みを浮かべるが、ちゃんと笑えているか自信がまったくない。
「ははっ・・・今日は運が悪いです」
「今日“も“じゃないんですか?」
この意地の悪い言い方は意趣返しだろうか。けれどポアロに初来店した時も、この間の土砂降りの雨の日も運が悪いと言ったような気がするので、反論できない。
ぐっと言葉を詰まらせていると、安室さんは小さくため息をつく。
「僕車なんです。家までお送りしましょう。」
「え?いやいやいや、悪いですって!」
「また酔っ払いに絡まれたいと?」
反論できるはずもなく、そしてとうに終電は乗り過ごしてしまった。
彼の視線が刺さる中、素直にご好意に甘えることにする。
「でも安室さん、何かお約束があって通りがかったのでは?」
「ああ、知人のバーへ一人足を運ぼうかと思っていただけです、お気になさらず」
嘘も方便という諺がある。彼はその方便が上手いタイプだ。
はあ、と気の抜けた返事をしつつ彼が所有する車に辿りつき、見た瞬間思わず顔を引き攣らせる。
国産車だがどっからどう見てもスポーツカーだ。色は白。
某郊外の峠に行くとモテモテであること間違いないだろう。
乗ってください、と促されなければその場で張り付いたように動けないでただろう。
予想通りかかったエンジンも一般的な車とはかけ離れた重低音を響かせる。
「どの辺りでしょうか?」
最寄駅を告げると、安室さんは意外そうな顔を見せた後、いつもの営業スマイルで頷く。
スポーツカーの助手席に乗るなんて、私のように平凡を絵に描いた女に訪れるとは。
流れてゆく景色に意識を向けていると、意外でしたと安室さんが唐突に口を開く。
「てっきりご自宅の近所を告げるものかと」
「私も一応大人ですから、いくら顔見知りとはいえ男性においそれと自宅を教えませんよ」
どれだけ抜けていると思われているのだろうか。
思わず苦笑すると安室さんは慌てて否定をする。
「あなたが抜けているとか、そういうことでなくて。防犯意識をしっかり持っているのに、なぜ繁華街でこんな時間に一人で歩いていたか不思議で」
会社の飲み会で他人を介抱し、そのせいで酔えず場所を変えて一人飲もうと思った経緯を告げると安室さんは眉尻を下げる。
「他人の介抱をしていて酔えないだなんて、あなたらしいですね」
「損な役回りが多いとは自覚しています」
「それでこの後、どうするんですか?」
僕でよければ付き合いますよ。とイケメンがとんでもないことを言い出したので、今度は私が慌てて否定する。
「お知り合いのバーに向かう途中だったんでしょう?それに安室さん、恋人がいらっしゃいますよね」
先日、とんでもない外国人美女をエスコートしているところを目撃してしまった。
色気全開の蕩けた笑みを浮かべ会話をしつつ、リゾートホテルへ消えていった。
夜に目撃したからか、場所がホテルだからか非常にすけべえな雰囲気で、見てはいけないものを見てしまったような気持ちにさせられたものだ。
心当たりがあるのか、彼は視線を前に向けたまま相槌を打つ。
「それ依頼人です」
「え?」
「内容は機密事項ですが、男性がエスコートしないと酷く機嫌を損ねる方でして。文化の差ですかね、とにかく疲れます」
そうなんですね、と相槌をうつと自然も洩れるため息。
ん?私今、ほっとした?なんで?安室さんに彼女がいないと分かったから?
「そして僕は今フリーなので、あなたと二人きりで飲んでも何も問題はありません」
図ったように赤信号になり、車が停車するとともに視線が交わる。
あの依頼人女性に見せたような、色気全開の笑みを私に向けた時ぶわりと熱が体中を駆け巡り、かっと顔が赤くなるのを感じる。
再び早鐘というより暴れ馬のように、どっくんどっくんと鼓動を刻む心臓。
なるべく平静を装い、明日仕事が早いや今日はタイミングが悪い日だからと思いつく理由を並べ丁重にお断りすると、彼は残念そうに眉尻を下げる。
「では次の機会にぜひ」
それから先のことはあまり記憶がなく、どうやって家路についたかさえ定かではない。
真っ暗な室内をズンズン進み、着の身着のままベッドへ飛び込む。
古くなったベッドのスプリングが軋み耳触りな音を聞き流しながら、先程安室さんに向けられた大人の色気全開の笑みを思い浮かべると、体中沸騰して熱くなり、胸を掻き毟りたくなるような衝動に駆られ、布団に顔を埋めたまま叫ぶ。
イケメンというのは行動やタイミングまでイケメンであるようにDNAにインプットされているのだろうか。
酔っ払いから助けられ、そのままスポーツカーで送ってもらう道中飲みに誘われる・
やはりフィクションの香りしかしないが、ありのまま起こった出来事なのだノンフィクション。
「かっこよかったなあ」
なんて天井に向かって独り言を言ってしまう程、安室透という存在が気になって仕方ない。
彼女じゃない、と言われた時のあの安堵感。何をどう考えても、私は彼に惹かれ始めている。
絶対嵌らない、嵌らないぞと言っていたのは嵌るフリじゃなかったんだけど。
よし決めた。気持ちに整理付けるまでポアロ行くの止めよう。
美味しいコーヒーや軽食達が恋しいけれど、これ以上親しくなると一発で落ちる。
私のシックスセンスが告げている。あんなとんでもイケメン恋人にすると碌なことないぞ、と。今までもあんなイケメンとは縁遠い生活だったのだけれど。
好きだと思ったら突き進んでいけるほど、もう若くもないし。
でもお肌の手入れや体型維持は気を抜かないでおこうと、その夜誓ったものの。
「こんばんは」
件のスポーツカーを会社のローターリーに横付けし、素敵な出で立ちのとんでもイケメンが私に笑いかけている。
茫然と立ち尽くす私に助手席を開き、どうぞとエスコートする姿も大変眩しい。
丁重にお断りしこの場を早く去ってしまわないと、明日どんな噂を流されるかたまったもんじゃない。
しかし安室さんの笑みから有無を言わせない圧力を感じ、何も反論せず黙って素早く車に乗り込む。これが最善の策だと信じて。
「お久しぶりです」
「そ、そうですか?」
「二か月あまりお見かけしていなかったものですから」
そんなにポアロ断ちしていたのか、我ながら凄いな私。
でも一番の理由は仕事が立て込み始めたから。安室さんに送り届けてもらい、距離を置こうと決意した頃から忙殺されていたので、タイミング的には丁度よかった。
んだけど!何故彼は私の勤務先を知っていて、あまつめちゃくちゃ目立つスポーツカーでお迎えに来てくれたのやら。
はあ、と曖昧な返答をしていると、僕何かしたでしょうか?と唐突に安室さんが切り出す。
あなたに惚れそうだったので、一旦冷静になるため距離を置いていたんです。と素直に言えるはずもなく、いいえ!と慌てて否定するが、私の返答が気に入らないらしくご尊顔を盗み見ると心なしか不機嫌そうで。
「丁度忙しくなってしまって。それより安室さん、なぜ職場を知っていてそしてどこへ向かっているのでしょうか?」
一度送り届けてもらい、素性も確かとはいえ夜に男性と車で二人きり。行き先も告げてもらっていないのはいささか不安だ。
私の不安を感じ取ったのか、側道に車を一時停車させこちらに向き直る。
「職場は梓さんから聞きました。強引な誘い方で申し訳ないと思ってはいます」
「明日私同僚に質問攻めにされます」
平凡女性がとんでもイケメンのスポーツカーで退社していった、なんて格好のネタだ。
どう言い訳しようかと考えを巡らせていると、安室さんが私の名前を呼び反射的に顔を上げる。
「それより僕を避けた理由を教えてください」
なぜ安室さんが苦しそうな表情をするのか。
理由を知りたい、けれど知ってしまえば戻れないともう一人の私が囁く。
「先ほど申し上げた通り、忙しくてですね?決して安室さんを避けていた、ということではなくて」
「あの夜、お誘いしたことが不愉快でしたか?」
ギクリと身を竦ませると、やっぱりと彼は酷く疲れた様子でため息をついたので、慌てて否定する。
「不愉快ではなく!そ、その・・・身に余る光栄に驚いてしまって」
「身に余る光栄、ですか?」
「だって安室さん、とても格好いいから。私は平凡を絵にかいたような女ですから、今まで貴方のような方とご縁がなかったもので、どうすればよかったか分からなくて」
「嫌ではなかったんですか?」
間髪いれず安室さんに問われ、顔を上げると深海のような底知れぬ色を湛えた瞳が、じっと私を見つめはたと動きを止める。
この瞳に見つめられると、鼓動が速くなり胸がチクチクして、居てもたってもいられなくなる。この千里眼のような瞳から早く逃れてしまいたい、でないと心の中を全て暴かれてしまいそう。
「ええ。機会があれば、また」
「それはいつでしょう?」
少しばかり低くなった声色に、間の抜けた私の声が続く。
「いつ、ですか・・・」
「約束できなければ“またの機会”は永遠に訪れません。いつもポアロに来て下さるから、その時にお話しをしようと思っていましたが」
あなたはいらっしゃらない。シンと静まり返る車内に安室さんの声がよく響く。
待ってこれじゃあ、まるで安室さんが私に会えることを心待ちにしているようではないか。
「やだなあ安室さん、そんなこと軽々しく言っちゃいけません。勘違いされてもしかたないですよ?」
自分に言い聞かせるように、冗談めかして言ってみるもののかすかに声が震える。
「かまいません」
その真摯な声に視線に、ぐっと近くなる距離に息を呑む。
「あなたになら、勘違いされてかまわない」
「わ、私は」
戸惑い視線を彷徨わせ、掴んだ腕から伝わる微かな震え。
狭い車内で男に迫られれば、どんな女性も少なからず恐怖心を抱くだろう。
分かっているのに止めることができない、止めたくもない。そうでないと彼女はずっとはぐらかし続けるし、ポアロにも理由をつけて来てくれないだろう。
確かな言葉を彼女から貰うまで、ここから解放したくない。
口が開いては閉じを繰り返し、唇が何かを象ろうとする度、胸を締め付けるような痛みが走る。
先日の夜、彼女を見かけたのは本当に偶然。
理由は分からないが、男が女性に手を上げようとしていたので割って入ると、相手はなんとポアロ常連の彼女で。
同時に猛烈な苛立ちに襲われ、感情のまま腕を捻ってしまおうかと考えてると、安室さんと不安げな声で呼びかけられはっと我に返る。
少しでも彼女を安心させたくて、振り向きざまにウィンクを送る。
唖然としているものの、ほっと小さく息をつくのを確認すると男を平和的に追っ払う。
手を振りあげていた男は泥酔状態。こんな奴に絡まれ、恐怖と不安に襲われていただろう。
こいつを締め上げることは容易いが、彼女の前で事を荒立てたくない。彼女が不安そうな表情をするのは見たくないと思った。
このまま別れてしまえば、また絡まれる。今の彼女にはそんな隙がある気がして、無理に押し切り愛車に乗せる。
聞けば飲み会の帰りだけれど、酔う程飲めていないから一人で仕切り直そうとしていたという。
ならばと彼女を誘うが、何かと理由をつけて断られ、断る理由を詰めたいと思ったがそれは僕がやっていいことではないとぐっと飲み込み、次の機会にと告げると彼女は曖昧に笑った。
社交辞令で済ますつもりは端から微塵もないし、かといって今連絡先を聞くと胡散臭いと思われそうで。
ポアロの常連さんなのだから、連絡先を聞くチャンスはいくらでもあるはず。
去りゆく彼女の背中を見送り、その日上機嫌のまま帰路についた。
今思えばなんて暢気に構えていたのだろうと、呆れるしかない。
あの日から彼女は店に顔を出さなくなった。
ひょっとして僕と会いたくなくて、避けて来店しているのだろうか。
梓さんに聞いても、最近見ていないと首を振る。
このまま待つべきなのだろうか。けれど待っていて彼女が来なければ?
会えないとの考えに至ると同時に、梓さんに彼女の職場を聞き出す。
始めは何色を示していたが、忘れ物を届けたいと口八丁で誤魔化した。梓さんの純粋な視線が痛かったので、後でちゃんと謝ろうと思う。
愛車で彼女の元へ向かう最中、色々なことが頭を巡る。
散々巡らせても最後は彼女に会いたいという結論に行きつくのだから、もう認めるしかない。
僕はどうやら彼女に恋をしているらしい。
認めてもストンと僕の中に落ちてきて、納得できたのだから案外危惧すべきことではなかったのか、結果オーライというやつだ。
認めてしまいかつ弊害がないと分かると、人間どこまでも積極的になれてしまう。
むしろ避けられたり、はぐらかされ続けると苛立ちの方が勝りなんとしても捕まえてしまいたいと思ってしまうのは、きっと僕だけではないだろう。
今伝えた言葉の意味を理解していない訳じゃないようで、暗がりの中でも彼女の頬が赤く染まっているのが分かる。
辛抱強く答えを待っていると、彼女は意を決したように僕に向き合った。
「私は平凡な女で、本当に何ももってないんです。お金も自分が暮らすだけで精一杯」
ん?何故そんな話にと首を傾げたところで、ずいと彼女から距離を詰める。
「だから!私新興宗教なんて入りませんからね!」
そこから彼女の畳みかけは目を見張るものがあった。
ノンブレスで噛まず一気に、僕を否定する言葉は色々な意味で力強く大変頼もしく見え、思わず噴き出す。
「ななななんですか!私は真剣ですよ!」
「え、ええ。分かっていますとも。そして僕もあなたを勧誘したいわけじゃあない」
初めて会った時もこういうやりとりをした覚えがある。
疑り深いというか、リアリストと褒めるべきなのか。
「好きです、貴方が」
他の女性とは明らかに違う魅力。彼女に感じてしまえば、もう離れるのは難しいだろう。
どうやら僕もまんまと嵌ったバカの一人なのかもしれない。
けれど彼女は僕の言葉を頑なに信じようとしない。
何かと理由をつけて、またのらりくらりとかわそうとするが、もう見逃してあげられない。
狭い車内をズリズリと後ずさるのを追いつめてゆき、ついに彼女の背がドアにつき行き場を失う。
「一旦落ち着きましょう!」
「僕は落ち着いていますよ」
「いやいやヒートアップしたら人間変なテンションになって、変なことに夢中になっちゃったりするじゃないですか!」
「確かにテンションはその度合いによって、人の脳を支配する強力な麻薬のようにもなりますが」
「でしょう?だから安室さんも」
「僕の気持ちが一時の気の迷いとでも?」
思わず低い声が漏れ、彼女がひえっと声を出す。
ここまで疑われると悲しいより、腹立たしいし憎らしい。
「僕に想われると不都合でも?」
「あります!だって私も好きだから!」
思わず叫んだ彼女ははっと我に返り、みるみる顔を赤くすると両手で覆い隠してしまう。
「き、聞かなかったことに」
「まさか!できませんよ」
間髪いれずにそう告げ、顔を覆い隠してしまっている両手に手をかける。
いとも簡単に離れ、耳まで赤く染め上げ悔しそうな表情をしていて。
「嬉しいな」
手を取って囁くと、言葉を詰まらせ悔しそうに僕を見上げる。
「安室さんはどんなキザなセリフでも似合ってしまって、恐ろしいです」
「あなただから言うんです」
「ほら、そういう褒め上手なとことか・・・怖い」
「僕から離れられなくなりそうで?」
可愛くてつい追いつめたくなるが、気の毒なほど顔を真っ赤にしているのでからかうのを辞め、ハザードランプを止め、パーキングブレーキを解除し1、2速とギアをシフトしアクセルを踏む。
追い掛けざまにシートベルトを着用し、きょとんとしている彼女にシートベルトを締めるよう告げる。
「ど、どこへ行くんですか?」
「とりあえず今日はお送りします。ご自宅、教えてもらえますね?それから連絡先も」
言葉なくコクリと揺れる首を横目で確認し、速度を上げるためギアを3速にシフトした。
送り狼になることなく、彼女を家まで送り届け次に向かうのはショッピングモールの駐車場。
指定された場所に停車すると、隣の車から見覚えのあるスーツ姿の男が下車し、助手席に乗り込む。
「それで?連絡役の目星はついたのか」
安室透とは思えない隙のない厳しい声色で、男――風見にそう問いかけると彼は頷いて資料を手渡す。
「彼女に間違いありません」
ペラペラと斜め読みする中、登場した風見の言う“彼女”に目を見張る。
つい先ほどまで隣で、ぎゃーぎゃー騒いでいた彼女そのものだからだ。
「間違いないのか」
信頼する部下にそう念を押すと、彼は資料にもある通りいくつかの証拠を上げる。
「であるからして、彼女は右翼過激派団体の資金調達のまとめ役です。それも相当な額を捻出しています。」
そこに記されているのは、一般的な地方自治体の1年分の予算。
最後まで目を通し思わず目を覆うと、風見が心配げに声をかける。
「差し出がましいですが、休息はちゃんと取ってくださいね」
答える代りに手を上げると、今度こそ彼は車を降りてゆく。
手に持った資料を助手席に投げると、ポンと電子音が響きノロノロとポケットからスマホを取り出す。
先ほど連絡先を交換したばかりの、彼女から初めてのアプリメッセージだった。
それを無感動に見つめると、画面を開いて返信し始めた。
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